商社ー海外駐在から現地法人社長、そして外資系企業からのヘッドハンティング
国際情勢に興味をもつようになり、英語を学んだ学生時代
私は、学生時代に商社に入ると決めました。
まだ中学生だった頃、たまたまついていたテレビ画面を見るともなしに眺めていると、ユーゴスラビア内戦の様子を伝える生々しいニュースが、衝撃とともに目に飛び込んできました。
戦争を非現実的な遠い過去のものとして認識していた私には、目の前の画面を通じて展開する「戦車が街を破壊する光景」や「手榴弾が爆発する光景」「人々が逃げ惑い泣き叫ぶ光景」が、別の場所でとはいえ、今この瞬間起こっていることがにわかには信じられませんでした。
圧倒的な驚きと恐怖と共に、いかに自分が日本という平和な国でただボーっと生きているかということに少年ながらも気がつき、呆然としました。
その日まで私は、おそらく多くの中学生がそうであるように世の中についてさほど真剣には考えてなかったごく普通の中学生でした。
その日以来、国際情勢に興味を持つようになった私は、高校では英語科に通い、大学では国際社会学を専攻しました。
大学時代には、その後解体してしまった旧ユーゴスラヴィア諸国にも実際に足を運び、スロヴェニアやクロアチア、ユーゴスラヴィア(現セルビア)といった旧ユーゴ構成諸国を自分の目で確かめ、内戦経験者の様々な立場からの話を自分の耳で聴くことができました。
こういった経緯で自然と国際的な舞台で仕事がしたいと考えるようになっていった私は、大学卒業後は商社に入ることに決めました。
希望通り商社へ入社、8年目に海外駐在員へ
商社では入社当初から資源の輸出入に携わりました。
資源のほとんどを海外に依存する日本においては命綱とも言える資源調達に携わることを誇らしく思ったものです。
そして、入社8年目30歳のとき、資源担当駐在員としてシドニーに赴任し、鉄鉱石や石炭などを中心とした鉄鋼原料貿易や、資源投資権益の管理、新規資源投資案件発掘・検討などを行っていました。
その後1年間の東京勤務を経て、33歳で今度は海外現地法人の社長として再びシドニー駐在を命じられました。
その際はまだ平社員だったのですが、現地法人社長は管理職以上でなけれなならないという社内規定があったため、社長になるために急きょ管理職に昇格し、そのまま現地法人社長として駐在するという大変慌しい特例の人事でした。
我が事ながら急な話の展開に驚きましたが、小さい現地法人ながら当時の私には分不相応とも思われるその大役を引き受けることとなり、内示から1ヶ月後には機上の人となっていました。
こうして降って湧いたような2回目の赴任では、従来の資源関連業務に加え、豪州現地法人の社長として、税務・会計・法務・総務・人事など、会社運営全般を担うこととなりました。
平社員だった私にとって、当然会社運営など初めての経験です。
ましてや海外の会社を切り盛りする自信など正直全くありませんでしたが、1度目の駐在経験がものをいい、本社や現地駐在員、現地社員の協力を得てなんとか社長職を務めました。
外資系資源会社からのオファー
そして現地法人社長に就任して4年が過ぎようとする頃、ある外資系資源会社に声をかけられました。
日本事務所代表のポストをオファーされたのです。
商社マンとしての資源に関する知識と経験、そして現地法人社長としての会社運営の経験を評価されたわけですが、前提として英語ができなければそもそもあり得ないオファーです。
家族にも相談し、限られた短い時間の中で悩みぬいた末、同社の初代東京事務所代表として、日本に戻り新たな道を歩むことを決意しました。妻子ある身で転職するのにはそれなりの覚悟が必要でしたが、いま、なんとか無事に2年目を終えようとしています。
ここまでの経緯だけみると、少年の頃にふとした偶然から抱くようになった漠然とした目標が、なんとなく人生の流れに乗って叶えられていったかのように聞こえるかもしれません。
実際、ほとんどの部分はその通りなのですが、かといって全てが簡単な道のりだったわけではありません。
とりわけ英語に関しては、大変苦労したわけです。
苦労を重ね培った英語力
高校時代から英語教育に力を入れている学校に通っていたとはいえ、そこは日本の受験重視の英語教育です。
私の元来のズボラな性格と相まって、大学卒業当初は、海外旅行ではそんなに苦労することはないにしても到底ビジネスの世界で通用するような英語力は持ち合わせていませんでした。
“普通の人より少しマシ”くらいのレベルです。その程度の英語力で始まったキャリアでしたので、当然ながら英語では苦労しました。
特に1対1で、表情も見えずジェスチャーも使えない電話でのやりとりが最も苦痛でした。
簡単な電話を海外に一本かけるのですら、(恥ずかしいので人に見られないように)想定問答集を書いたメモを作るなどの準備をして臨んでいました。
実ビジネスではネイティブスピーカーを相手に商談するわけですが、やたらと訛りのある人もいれば、感情的になりやすい人もいます。
交渉のタクティクスとしてわざと感情を出してくる人もいます。
様々なバックグラウンドをもった自分よりも経験豊富な人、あるいは自分よりも社会的地位の高い人と、英語で議論し交渉してビジネスを進めるわけですから、生半可な英語力では通用しません。
そして、通訳業務では本当に苦労しました。
「他人の言葉を、ニュアンスも含め瞬時に誤解の無いよう正確に通訳する」ということは本当に難しく、今でも通訳の際には毎回胃が痛くなる思いをします。
また、状況に応じて、会計会社や法律事務所などを通じた折衝もあり、日本語でもわからないような専門用語も飛び交います。
このような仕事を通じて、少しずつビジネスで通じる英語を身につけていったわけですが、現地法人の社長という重責を担ったり、外資系企業に声を掛けていただいたり…といったその後の人生の展開に、こうした「苦労して培った英語力」という前提があったことは言うまでもありません。
今日、日本では産業の空洞化が進んでいます。
大手企業の海外進出に伴い、次第に資材等の現地調達が進み、周辺産業も海外進出するようになりました。
従来は完全に国内に特化していた中小企業でさえも海外に進出せざるを得ない状況が現出しています。
その一方で、ビジネスレベルの英語を話せる日本人のなんと少ないことか。
ボーダーレス化、グローバル化が言われて久しい今日でも、私の見る限り、”世界に通用する”国際人”は他の国に比べ圧倒的に少ないと断言できます。
過去に比べれば英語を話せる日本人が増えていることは間違いないと思いますが、その数はまだまだ少ない。
しかし、裏を返せばここにチャンスがあるということです。
英語を操られるようになれば、少なくともそこに必ず需要はあります。
ただ、英語はあくまでもビジネスを成就するために必要なコミュニケーションのツールであり、(通訳者や翻訳家でない限り)英語それ自体が主役ではないという点はしっかりと理解しておかなければなりません。
とはいえボーダーレス化が進む世界の中で、ビジネスマンが最低限身に付けておくべきツールだといえます。
英語を話すことができれば、世界が広がり世界中に自分を売り込むことができる
私が現在所属しているのは、鉄を作る際の主原料となる鉄鉱石を生産・輸出販売する資源会社で、スイスに本社を置きロンドン株式市場に上場する多国籍企業です。
私は日本事務所代表として事務所運営を行うかたわら、日本や韓国など東アジア地区への輸出販売を担っています。
この会社は一万人近い従業員を有していますが、その中で日本人は私と私のサポートをしてくれるアシスタントの2人だけ。
私の所属するマーケティング・チームは自社で採掘・加工した鉄鉱石を世界の製鉄会社に販売する仕事を担っていますが、オーストラリア人、スコットランド人、スウェーデン人、中国人、インド人など、まさにインターナショナルな人員で構成されています。
チーム内のコミュニケーションは、会話・文章問わずすべて英語で行われるので、英語が話せなくてはどうすることもできません。
昔はあれほど苦痛だった電話での英会話ですが、気がついてみれば今では週に一度は必ず電話会議に出席し、英語で人の意見を聴き、英語で自分の意見を述べるようなこともさほど意識をすることもなく日常の業務のなかで普通に行っています。
また、海外からや海外への出張者には必要に応じて通訳も行っています。英語を話すことができれば、このように世界を広げていくことが可能です。
大袈裟ではなく、世界中に自分を売り込むことができるのです。
日本でも終身雇用制が揺らぐ昨今、自らを高く売るための武器はどんどん備える必要があるでしょう。
英語はそのなかでも最も基本的かつ重要なものといえるでしょう。
私は商社で培った資源に関する知識や経験に加え、英語力を高めていった結果、今のポジションを得ることができました。それは、当初の自分では想像し得ないことです。
英語に関しては、恥ずかしい思いも悔しい思いも数え切れないほどしてきました。
苦労し、逃げ出したいと思うこともたくさんありましたが、逃げずにがんばってよかったと今ではその苦い経験に感謝すらしています。